【3.バイト先で死体となったこと、アキちゃんについてのみじかい話 】
3-1
夏休みも残りわずかというころ、歓迎会もかねてバイト仲間でのカラオケ会が開催された。
これまで、大勢でワイワイとどこかに出かけることがなかったわたしは、はじめてのことに舞いあがり、大変盛りあがった。ひじょうにたのしかった。それでつい、終電をのがしてしまうという失態をおかしてしまった。
先輩たちはみんな閉店時間(朝の五時!)まで歌いつづけるとのことだったけれど、翌日も午前十時出勤のわたしは先に帰ることにした(だって起きられる気がしない)。タクシーに乗ろうと商店街のカラオケ屋さんを出るところで、声を掛けられた。厨房の男の人だった。
――いやあ、びっくりした。朝ちゃん歌上手いね!
フリータのお兄さんで、高校には行っていないものの、歳はわたしとたったひとつしか変わらないということ。この日初めて喋ったというのに、突然の朝ちゃん呼びである。赤に近い明るい茶髪を短くし、目つきもいかつい。けれど社員さんからもバイト仲間からもお客さんからも人気のあるやさしいお兄さん。名前を谷さんという。
――歌だけは得意なんです。ちょっとだけ。
駐輪場に移動しながら、先ほどまでの興奮がまだ冷めやらぬというふうに、わたしたちは喋った。
――ちょっとじゃないよ。プロなれんじゃね? おれそういうのくわしくないけどさ、めっちゃグッときた。
かつて誰かにこれほど褒められたことがあっただろうか。褒められ慣れをしていないわたしはたちまち顔を真っ赤に染め、俯いた。ちいさく嬉しいですとだけ、呟いた。
谷さんが、ハミングをする。それは先ほど、わたしが歌った曲のサビ部分だった。
――これ、誰の曲だっけ? いい歌だね。すごいよね、英語の歌うたえんだもん。得意なの?
――カーペンターズですよ。
それから、英語は少しだけ得意だと答える。ア・リトル。ちょっとだけ。
――カーペンターズって昔の人?
――兄妹でデュオしてた人たちです。
母が好きで、と付け足す。
わたしは、三曲つづけて彼女らの歌をうたった。サビの部分だけを。
トップ・オブ・ザ・ワールド、クロス・トゥー・ユー、レイニー・デイズ・アンド・マンデイズ。
――あ、聞いたことある。
――ぜんぶCMにも使われてたんだと思います。
――カッコいいわー。また行こうね。
ぜひ、とわたしはニッコリした。
カラオケボックスの裏の駐輪場へ着く。てっきり自転車なのだと思ったら、谷さんが押してきたのが大きな二輪車だったのでおどろいた。バイクだ! 夜の闇に溶けそうな、ホンダの真っ黒の中型バイク。400ccくらいだろうか。かっこいい。ボディは駐輪場に所在なさげに佇む安蛍光灯の光を反射して、ピカピカしている。
――バイク乗るんですね。
――カッコいーっしょ。高かったんだー。
――わたしはじめてなんです、乗るの。
――ホント? あ、こわい? 大丈夫?
――大丈夫です! すごく乗りたい。
それはよかった、と谷さんは言って、脇のヘルメットループに釣り下がっていた半月型のヘルメットをかぶせてくれた。自分もおなじようなかたちのヘルメットをかぶる。
――車高けっこうあるけど乗れるかな。
――大丈夫かと思います。
しかし、その日履いていたのは最近新調した細身のジーンズで、究極に体がかたいひとみたいに、ちっとも足があがらなかったのだった。わたしは赤くなる。
谷さんは笑って――いつもの豪快な、ガハハという感じのやつ——、キックエンジンをかけるといったん自分は降り、わたしをひょいと抱きあげ、なんでもなさそうにバイクの後部席へ乗せた。急なことで、わたしはカチンコチンに凍ってしまった。
――しっかり掴まってな。落ちるよ。
ふたたび車体にまたがり、おおきな声で(エンジン音がおおきすぎて、怒鳴りあうようにしなければ会話ができない)そんなことを言った。どこにと戸惑うわたしの腕をひくと、谷さんは自分の腰に誘導する。体が密着し、真っ赤になってしまう。
八月下旬の夜の空気は、日中のそれを知っていれば信じられないようなほど冷たかった。まだ夏が終わっていないとは、到底思えないような。秋の始まりの洗礼を受け耳の先は凍りつきそうになり、むきだしの肌は一瞬のうちにキンキンに冷やされてしまった。
はじめてのバイクは、これでもかというくらいスピードが速く、しばらくはおそろしくて息を止めていたくらいだったけれど、すぐに慣れた。車よりずっと近いところに景色がある。手をのばせば掴めそうな。ライトや電柱や自販機や他人の家やらがすごいスピードで後ろへ流れていって、それを漫然と眺めているだけでもたのしかった。
しかし、たのしい時間はあっというまに終わるもの。道案内をしつつ、マンションの下に着いたのは、自転車の半分以下の時間だった。
――大丈夫だった? バイク。こわかったんじゃない?
――ちっとも! とても気持ちがよかったです。
いいバイクですね。心より、わたしは彼の黒いすてきな相棒を褒めた。
なんだかこれは、と、わたしはドキドキしながら思う。もしかして恋の始まりというものは、こんなふうなのかもしれないと。
じゃあそろそろ、と谷さんは言って、バイクにまたがった。エンジンをかけ、片手をあげる。
わたしはおじぎをして、マンションの敷地からでていくうしろすがたを見送った。
高校一年めの夏は、そんなふうにして過ぎていったのだった。
ここ二週間マンガばっかり読んでいる話 ~やっぱり紙はいいなという話~
はてなブログをはじめて、一回どれぐらいの文字数で、どれぐらいの量を更新すれば読んでもらいやすいのかがわからないので、なろうさんやカクヨムさん1ページのはんぶんずつを2、3回ずつ(たぶん)更新してゆこうかと。
フォントがかわいいですよね、これはメイリオかなァ。ときどきフォントが違う方をみつけたりするのだけど、それはCSSで制御しているんだろうか。お察しのとおり、ぜんぜん使いこなせておりません。
ひとまず、読書記録や近況なんかもブログとして書いてゆけたらと思ってはいるのだけれど、なんせブログのかたちですから、タイトルでブログなのか小説なのか、すこしでもわかりやすいようにと、小説タイトルはあたまに【WEB連載小説】、章タイトルは【】をつけようかと思っています。そのほかは章番号-●のかたちで更新されてゆきます。
***
こないだ魔がさしたみたいに文庫本を買いこんだ(七千円くらいした)ところなのに、この二週間ぐらいマンガばっかりよんでいます。ここ数年は電子書籍でしかほぼ買わなくなっていたのだけれど、さいきんまた、紙のよさに気づいたというか…
町麻衣『アヤメくんののんびり肉食日誌』
恋愛ものとかはキリがないので普段紙では買わないんだけれど、LINEマンガで一話めをよんだときに、「これは手元においておきたいなァ」と思ったのが写真一枚目。『砂時計』の人ですね。心がしんどいときは、おいしいごはん。それを一緒に食べたいと思える人のそばにいたい。疲れたときにパラパラ読んで元気をもらいたいなァって。
アヤメくんは、表紙の男の子がタイプだったのと、爬虫類がかわいい。リクガメ飼いたい。トカゲでもいい。爬虫類だいすきなむすこ(小4)も表紙につられて「読みたい!」というから貸してあげたんだけれど、おっぱい、モロ出ているのだけどだいじょうぶかなァ…と思ったけど、まあ、いいかと思いなおす。さいきんよく「ドーテーってなに?」って訊かれる。そういうときはニコニコするに徹します。
宝石の国は、表紙もさることながら、内容も夢みたいにうつくしい。人間の滅びた未来の話。六度隕石がぶつかって六度欠けたこの星、地上に住めなくなった生物たちは魂・肉・骨に分かれ、海へ還りそれぞれ進化した。そのうちの一つが宝石の子たち。彼らの破片を持ち帰ろうとやってくる《月人》たちとの攻防はきりがなく、どんどん仲間は月へと連れ去られてしまう。飛び散る宝石のかけら、飛び交う矢、剣…絵がかわいい、うつくしい、ユーモアがキュート。
なんか小説よりも長くなってしまいそうなので、ここらへんで。
せっかくおやすみの前日なのに、おなかが絶不調につきお酒が飲めない。ワインにあうおつまみたくさん買ってきたのに。
小説好きさん、マンガ好きさん、仲良くしてくださーい。
2-5
「でも、話すことなんかホントに何もないのに」
「しつけーな。俺はあるんだって。なあ、悪かったよ。こないだのこと」
わたしは首を振った。「ヨルは、」いまさら謝られたところで。
わたしがどんな気分だったか。
あの日、ヨルは。
「……ヨルは何も悪くないよ」
ヨルはわたしの腕をひき、サッカー部の部室へと連れこんだ。他に部員さんのすがたはない。今日は各自昼食を摂ってからの練習になるらしい。
「なんだよそれ」今日のヨルはずっと、いらだっている。わたしのせいだ。「納得できねー。納得できるようなこと言えよ」
「だから」部室中央のブルーの長椅子に肩を並べて座って、わたしは落ち着かない。「ない。話すことは、なんにも」
ヨルは舌打ちをすると、押し黙った。
わたしも、こわくて、となりでただ無言でいるほかない。
「……わかった」
いくらかの沈黙ののち、空気が震えるような低い声でヨルは言った。え。わたしは顔をあげ、ヨルをみた。わかってくれた?
「じゃあ俺絶対アサとは別れない」
「な」わたしは戸惑う。「なんでそうなるの」
「お前が勝手なことばっか言うからだ。別れたい。でも理由はない。話すことは何もない。納得できるかっつーの」
「わたしはもう、ヨルのこと好きじゃない。好きじゃなくなったから、一緒にいたくない」一生懸命、その整った横顔を睨む。
「どうして急に?」
「……。」
「ほら、答えられない」この話はもうおしまい、と、ヨルは立ちあがった。
困った。泣きそうだった。
まさかヨルが、こんなにしぶるとは思わなかったのだった。別れたいって言えば、ああそうかわかったじゃあな、と、こうなるとばかり思っていたのに。
とほうにくれていると、頭上に影がさした。思わず顔をあげてぎょっとする。すぐそこに、ヨルのきれいな顔が……
「や、やだ! やめてっ」
「止められっか。こっちは一ヶ月もおあずけくらったんだから。ヤらせて。どうせ誰もまだ来ねーから」甘い声。
左手のうえに、おおきな手のひらが重ねられる。急な体重移動により、チープな長椅子はミシリと不穏な音をたてた。顎を持ちあげられ、鼻と鼻がぶつかりそうな至近距離で、ヨルが目を閉じた。
ヨルが愛用している、男の子用の制汗剤のにおいが鼻腔をくすぐった。
その瞬間、わたしは思いっきり左手を振りあげた。
バチン。
手のひらが焼けるようにあつくって、われにかえる。
ヨルは不自然な姿勢のまま、すべての動作をストップさせて、ただポカンとしている。
「す」わたしもパニックだ。叩いてしまった。叩いてしまった!
「好きな人ができたっ」
「は?」
あっけにとられたふうにまるくなった目が、怒りや不快感を孕んでみるみるうちに険しく歪められてゆく。
「は? 何。それ、別れたい理由?」
やぶれかぶれに、頷く。「だからもう、ヨルとは付き合えない。ごめんなさい」
ヨルは立ちあがるとくるりとうしろを向き、吐き捨てるように「最低」と言った。
「冷めた。がっかりした。もういい。お前なんかいらない。こっちから願い下げだ。別れる」
わたしは、知らず歪んでしまう口もとにギュッとちからを入れ、一文字にむすぶ。わなないてしまいそうな、下唇を噛む。
ここで泣いたら、すべて台無しだ。
わたしは立ちあがると、みじかくごめんなさいとつぶやいて、逃げるように部室をあとにした。
そのまま一度も立ちどまらず振りかえらず、自転車置き場まで走った。
2-4
「なんのバイトだよ」
「飲食店」
「お前が? 人見知りなのに? どこで働いてんの」
「教えない」
「なんでだよっ」
「とにかく、あたしらもう行くから。元カレもさっさと教室帰ったら」
「だからまだ認めてないっつの」
行こ、と、めぐちゃんがわたしの背中を押す。やっと足は本来の役割を思いだしたようで、一歩二歩と、たどたどしくヨルの横を抜け、その場を立ち去る。
「とりあえず、ちゃんと話しよう。また」まだぶすりとしたままの声で、ヨルは言った。わたしは答えなかった。
「ちゃんと話し合ったほうがいいんじゃない?」
ずいぶん離れてから、めぐちゃんは言った。
ゆるゆる頭を振った。「話せるようなことは何も」頭が重くて、刈り入れ前の稲穂のようだ。地面を見つめたまま、わたしは答えた。
「だからって、言わなきゃあんたが悪者になるじゃない」
「しょうがないよ。……悪いのはこっちだし」
「アサ」悲しそうに、めぐちゃんはわたしの髪を撫でた。「あんたがいつ悪かったのよ」
わたしは答えなかった。
★
ギョウザ…コーテル
チャーハン…ソーハン
天津飯…テンハン
焼きそば…ソーメン
唐揚げ…エンザーキー
口の中で呪文をとなえながら、廊下をゆっくり歩いてゆく。17時からはバイトだ。
放課後までのことは、全然おぼえていなかった。ホームルームで学園祭の話をするなど、いろいろ取決めがあった気がするけれど。目だけひらいて、ずっと人形のようにぼんやりとしていた。
クラスの女の子たちが、これからお昼を食べてカラオケに行くんだと誘ってくれたのも、断ってしまった。惜しいことをした。ぼんやりなんて、いいことはひとつもない。しかたがないので、帰宅することにした。
ギョウザ一人前は、「コーテル・イー」または、「イーガ・コーテル」。ギョウザ2人前みっつは、「コーテル・リャンガ・サンテー」。チャーハン大盛りは、「ソーハン・ヤザワ(ヤザワ?)」。
謎の呪文。もといバイトの用語をとなえつつひとりで下駄箱、そこに待ち受けていた人影をみつけ、ちいさくあげてしまいそうになった悲鳴を、わたしはあわてて、飲みこむ。
「ヨル」
泣きそうな声が出てしまう。わたしたちの教室は一年生の教室の中でも一番端にあるから、下足へ行くには他クラス全部の教室前を通らなくてはならない。だから、みんなが帰るまでわざわざ教室で時間をつぶしていたのに。それが、あろうことか、一番会いたくないひとに会ってしまうなんて、まったく意味がない。
助けをもとめるみたいに、ついうしろを振りかえった。わたしの救世主は、いなかった。
「岸なら委員会。一時間は終わんないんじゃね?」
「もう帰るから。そこどいて」
「こうでもしなきゃ、アサは逃げるだろ」
「お願い」とほうにくれて、わたしは言った。「そこどいて」話すことなんか、なんにもないの。
ヨルが、うごいた。それだけでビクリと反応してしまう。
それまでもたれていたロッカーからいったん離れると、ヨルは体の方向を変え、ロッカーのドアを開け、わたしのスニーカーを出した。それを片手に、肩にかつぐようなかたちで高いところ――わたしの背が低く、ヨルの背が高いから自然とそういうことになるのだけれど――へ持ってゆき、こちらと正面から向き合った。
「どうせバイトまで時間あんだろ。話させろ」
靴を人質に。なんという、こそくなまねを。
わたしはちからなく頷いた。
2-3
始業式は、一限目にとりおこなわれた。
校長による冗長的な話があり、新任の先生の紹介があり、県大会でベスト4に残った柔道部の表彰式があった。
それらの光景はすべて、目でしっかり見ていたはずなのに、あとには何にも残らなかった。柔道部キャプテンが表彰状をうやうやしく賜り、全校生徒がいっせいに拍手をした。体育館全体に響きわたる音のそのおおきさに、やっとわれにかえった。あわててみんなに合わせて手をたたく。
拍手がすっかりやむのを待って、教頭先生が締めくくりの言葉を述べ、解散を言いわたした。クラス、学年ごとに分かれて体育館を出てゆく。クラスの女の子たちが、新しく赴任してきた先生たちのことをあれこれ言っているのを横で笑いながら聞きつつ、体育館をあとにする。
「アサ」
入り口をでてすぐ、今もっとも聞きたくない声がわたしを呼び、すっと体がつめたくなった。
入口脇の水飲み場にもたれるようにして立っていたそのひとは、わたしのすがたを見つけるなり体を起こし、大股でこちらへと向かってくる。その場に立ちすくんでしまう。
逃げなければ、と思うのだけど、わたしの足はわたしの脳の言うことを無視し、とるべき行動をとってくれない。地面に釘で打ちつけられたみたいにして、ばかみたいにつっ立っているほかなかった。
近くにいた子たちは気をきかせた風に、「先に行ってるね」とわたしを置いていってしまった。
「何してんの。俺お前ん家の下で十分待って、で、チャイム鳴らしたら千代さんがもう行ったって言うし。二学期初日から遅刻しかけたっつの。お前のせいで」
周りには、まだ他の学年の人たちも、立ちどまってそこいらで談笑したりしている。賑やかなはずなのに、わたしの耳にはほとんど何も聞こえない。そのひとの声しか、聞こえない。
ヨルは不機嫌そうに、こちらを見おろしている。
「大体お前なんなんだよ、この夏休み中無視しやがって。メールも返さねーし電話繋がんねーし。居留守なんだかどうだか知んねーけど、いつ行っても留守だし」
「ヨルには、もう関係ないよ」
こわくて、今すぐ逸らしたいのに、わたしの目はずっと、そのひとの目を見たままだった。ここで逃げてもしょうがない。覚悟を決めて、わたしは言う。声が震えていた。
ヨルは、は? という風に、眉をしかめた。
「なんだよそれ。どういう意味だよ」
「言ったじゃん。もうわたしたち――」
あいかわらず周囲の音が遠い。けれど音は聞こえなくても、視線を感じることはできる。
ヨルは目だつひとだし、わたしたちのことは、たくさんのひとたちが知っている。
「なんだよ」
「……ここじゃやだ。またあとで話しよう」
「お前また逃げるだろ。今言えよ、言いたいことは」
言えない。見られている気配はどんどん色濃く、つよくなっている。
「言っとくけど、俺は別れたつもりないから」興奮してきたのか、ヨルの声がだんだんおおきくなる。
「ヨル、お願い」反して、わたしの声はどんどんちいさくなってゆく。
「なあ、お前何をそんなにまだ怒ってんの? こないだのことなら謝ったじゃん」
「ここじゃ無理……」顔があつい。
「言えよ。なんで別れるとか言うの」
「ねえ、ホントにもう」お願い。やめて。
「別れたいならワケ言って。ちゃんと、今、ここで」お願い、もう、やめて。
ヨルが、わたしに一歩近づく。足はやっぱりうごかない。
おおきな手のひらがこちらへ伸びてき、顔に触れた。
とたんに、我慢していたものが頬をつうっと伝った。
もう、やだ。
そのとき、急に周囲の音が濁流のように一気に耳に入りこんできた。ざわざわ、ひそひそ、わいわい、がやがや、
みんながこちらを見ている。わたしたちのことを、見ている。わたしたちのことを、話している。わたしたちのことを、
「な、バッ……何も泣くことないだろっ」
とうとう、ヨルから目を逸らした。視線を落とす。ぼたぼたと、おおつぶの涙がコンクリートに模様をつくった。ヨルの声があわてている。
ざわざわや、ひそひそや、わいわいや、がやがやが、どんどん耳におおきく響いてくる。音の洪水。笑い声も聞こえる。
そのとき、うしろから、ぬっと腕が伸びてきたかと思うと、首のあたりにまわされる。あたたかい。その温度に心底ホッとしてしまう。
「はいここまで。あたしの大事なアサを泣かさないでくれる?」
「岸には関係ない。俺ら今大事な話してんの。消えてくれる?」
「消えるのはあんたよ。話すことなんか何もないっつの」
「俺はあるんだよ!」いらいらとヨル。
「しつこい男ね。アサはあんたとはもう別れたっつってんだから、もう終わってんの。別れた女にいつまでも付きまとうなダサい」めぐちゃんの低い声には迫力がある。
「ダサい?」ヨルの声がはっきりと怒りをあらわした。「だから俺はなんでそうなんのかを聞きたいって」
「場所を考えなって言ってんの。これ以上アサを
そこで、ようやくヨルは自分の置かれる環境に気づいたようだった。歯切れがわるくなる。
「とにかく……俺は別れたつもりなんかない。放課後また連絡するから」
「……今日は無理」
「は?なんでだよ」
「バイト、あるから」
「バイトぉ!? お前が?」
めぐちゃんが勝ち誇ったみたいに、「そんなことも知らなかったわけ?」と笑った。負けずぎらいのヨルはぶすりとしている。
2-2
「大変だね、早起き」と気を遣うと、めぐちゃんはフンと鼻を鳴らし、「これから毎日来るからね。見張りをかねて」などと言う。
「そんなことしなくても休まないよ。大丈夫」へらっと笑ってみせる。
「ほら、座って今日はメイクもしたげるから。早く」無視。まったく信用されていないのだ。
「ああ、はい」すみません。情けないようだが、このおそろしい親友さまには、すなおにしたがうほかない。
鏡台の前へ座らせたわたしの髪を、めぐちゃんはあっというまに編みあげてしまう。
「相変わらずの鮮やかなお手並みですなあ」
「うるさい。次、顔貸しなさい」
「言い方が物騒だよ」
めぐちゃんには十歳年上のお兄さんがいて、彼はスタイリストのお仕事をしている。自分も同じ道に進み、いつか一緒にお仕事をするというのが、彼女の夢だ。
わたしは、めぐちゃんをみるといつも姉を思いだす。めぐちゃんがうらやましい。美人で背も高くて、明るくてさばさばしているし、どこへ行ってもすぐ友だちができる。そして、夢がある。自分の進むべき道を知っている。わたしとはすべて、正反対だ。鏡台に向かってメイクをほどこしてもらいながら、ちらりと鏡に映る、ベッドの足もとあたりに目をやる。わたしはそんな自分がきらいで、“それ”を始めたのではなかったか。夏休みに入ってからは一度も触れていない、“それ”。きっとうすく埃が積もっていることだろう。
「はい、終わりー。とっとと行くよ、学校」
エントランスへでたとき、つい携帯のディスプレイで時間を確認する。7時43分。未練がましいみたいに時計を確認するわたしにめぐちゃんだって気づいたはずなのに、彼女は黙って駐輪場へと歩いていってしまった。しかたなくて、わたしもそのあとを追った。
★
「あ、杉村さん今日かわいーっ!」
「めぐちゃん……岸さんがしてくれたの」
「いーなあ、私もして貰いたい」
「ホントだあ、かわいー!」
席につくなり、クラスの女の子たちに取り囲まれる。
めぐちゃんとはクラスが違う。わたしは四組で、彼女は一組。遠距離恋愛のようなものだ。だけど、おんなじ学校に通えるだけで嬉しい。
「杉村さんせっかく似合うのに。毎日してこればいいのにー」
「不器用だもん。自分じゃできないよ」
「そんなむずかしくないよー別に」
「あの、なんか、まぶたのキワキワのところに線引いたりとか、あんなのぜったいできないし、まつげをカールするやつ……あれもこわい」
「ツケマにしたらいーじゃん」
「ツケマ?」
「違うよシオリ、ツケマのときもビューラーはするんだよ」
「えー、私したことなかったー」
「なじまないっしょ? 軽くカールさせとかないと」
「そういうもん?」
「そー、そー」
目の前で、繰りひろげられる高度な会話についていけない。わたしはただ、ニコニコに徹する。
「毎日おしゃれだと、彼氏も喜ぶっしょ?」
ニコニコのまま、固まる。
「松田くんの喜んでる姿想像できないー!」
「いつも無表情だからね」かすれた声で、それだけ言う。
「ねえねえ、松田くんってどんなことで喜ぶの?」
「私一回だけ笑ってるとこ見たことあるよ! 鼻血出そうだった! すッごいイケメン!」
ニコニコのまま、わたしは今座ってるこの椅子の下の板がパカンと開いて、落ちていけたらと真剣に思った。「脱落!」とか「失格!」とかになりたかった。
救いのチャイムが鳴って、みんな散り散りに各自の席へと戻ってゆく。押し殺した息を吐きだした。これから、さっきみたいなことはいつでも起こるのだろう。キリキリと、胃が痛んだ。転校しようか。切実に思うのだった。
【2.幼馴染のヨルの話 】
2-1
ヨルの家とは、父親同士が仲が良かった。
ふたりは中学校からの同級生だった。高校、大学と同じ道をあゆみ、同じ会社に入社した。何年かののち父たちは、同時期に退職しそれぞれ会社を立ち上げた。ふたつの会社は今ではひとつに統合されているが、前身の各社も互いに近かったというから、どこまで仲が良かったんだとびっくりしてしまう。
先に結婚したのはうちの父だった。結婚をしてすぐ姉が生まれ、それから数年してヨルのお父さんも籍を入れた。ヨルのお母さんが子宝を授かったことがわかったちょうどそのころ、うちの母もふたりめを身ごもったことが判明し、父たちは大変よろこんだ。そして、われわれにきょうだいのような名前をつけた。朝日と真夜。近しいひとたちは愛をこめて、われわれをアサとヨル、と呼んだ。
どちらの父も、自分たちの会社に近いところを基準に選んだために、お互いの家はごく近所だった。夕飯はどちらかの家で二人一緒に食べ、同じ布団で眠ることも多かった。
うんとむかし、ヨルはひどくちいさな子だった。ささいなことですぐに拗ね、ちょっとのことでべそをかいた。わたし以上にわたしの姉にべったりで、いつでも姉のうしろをついてまわった。
――誰のお姉さんかわからないな。
父は嬉しそうに姉の頭を撫でヨルの頭を撫で、よく言ったものだった。
しかしそれも姉が小学校高学年になる頃までの話だ。クラブを始めて忙しくなると、姉のわたしたちと過ごす時間は激減した。中学校に入るとそれはますます顕著になって、ヨルはわたしにくっついてまわるようになった。姉のかわりというわけだろう。わたしたちはずっとクラスも一緒だったから、双子のように扱われた。
先生は、落ち着きのないわたしにヨルを見習うよう注意したし、人前で発言することが苦手でもじもじしているヨルをたしなめ、アサをごらんなさいと言ったこともあった。
やがて地獄の季節がやってきて、わたしと母は、父の家を離れて暮らすことになった。校区が分かれてしまったので、ヨルやめぐちゃんとは、別の中学校に通うことになった。
それでも、わたしたちはずっと一緒だった。わたしは部活をしなかったから、放課後よくヨルの学校へ迎えに行った。部活が終わったヨルはいつも、制汗剤のいい匂いがした。
ギターをはじめたのは、中学校へ入った頃だった。別れた父が入学祝いにと贈ってくれたのだ。
あたらしいマンションで、わたしは一年間、ひたすらコードを練習した。スケールをやってアルペジオをやって、えんえんと基礎練習に励んだ。隣でヨルはたいくつそうにしていたけれど、自分も弾きたいとは思わなかったようだった。
ヨルは極度の淋しがりやだから、前のように四六時中一緒にいられなくなったのだから、わたし以外の人を頼ってもそれは、しかたのないことだった。
小学校を卒業する少し前くらいから、うしろをついてまわるのはわたしのほうになっていた。ヨルの背はどんどん伸びた。わたしはちいさいままだった。まるでヨルになったみたいだった。彼の性格がそのままうつったように、臆病で陰気で、すぐ泣くような子供になってしまった。
★
インターフォンの音で目が覚める。
夢の続きかと思って、ベッド上のわたしは白い天井をにらみ、しばしそのままの姿勢――いつでも夢に戻れるための姿勢――でいる。と、もう一度鳴る。しっかりとした、現実の音だった。エントランスに誰かが来訪したことをつげる音。わたしはのっそり体を起こす。ベッドのうえで正座をし、一点を見つめ、ぼんやりとする。
母はどうして出ないのだろう。まだ帰っていないのだろうか……耳をすますと、リビングのほうからテレビの音が漏れているのに気づく。帰ってきてテレビを点け、そのままソファで眠ってしまったのかもしれなかった。今日は何日だっけ。なんの日だっけ。何曜日だっけ……この夏一か月ちょっとのことを思いだす。
学校から近い国道沿いの中華屋さんでバイトをはじめた。中華屋さんってヤンキーみたいなひとばっかりで、最初はなじめる気がしなかったが、意外とみんないいひとたちだった。たのしくて週六のペースで通っていた。あれからもう一か月。
はっとした。
そうだ、きょうは、
「……制服をもらえる日……」
八月一日から始めたバイトが、一か月めを迎える日である。それまでは研修中ということで、自前のジーンズに白いTシャツ、そのうえからお店のエプロンをつけただけのかっこうで働くことになっていた。思えばここまで長かった。何しろ、オーダーが全部中国語なのである。中華屋さん独特の、湯気と油の混じった匂いにもなかなか慣れなかった。とはいえ、たのしくて、ほとんど遊びにでかけるような感覚で出向いてはいたのだけれど……。
もう一度、インターフォンが鳴る。何かお忘れではありませんか、と、どこかいらだったふうにもそれは聞こえる。
「あ、違う。今日から九月……」
ついと自然にこぼれた自分の言葉に、寝ぼけた脳みそは瞬時に覚醒した。
今日から九月。
学校じゃないか。
わたしはつんのめりながら自分の部屋を出、リビングへ走った。
「信じられない。昨日連絡したのに」
モニター越しに、
「お、起きてはいたよ。忘れるわけないじゃん……わたしがめぐちゃんとの約束を……」
「そんな寝起きの顔してよく言えるわね」
エントランスの、オートロックのキーを解除し、エレベータで九階までたどり着くまでの三分ほどで、大急ぎで顔を洗いあわてて制服に着替えたのだけれど、そんなとってつけた工作など、このひとの前ではなんの役にもたたず、すぐに見破られてしまった。探偵のかたですか?
彼女はやたらとでかいリュックをがさごそとかき回し、次々にアイテムを取りだしてゆく。ヘア・アイロン、ヘア・ミスト、ムース、ワックス、クリップ各種、ブラシなど。
「くくるだけじゃだめ?」いちおう訊いてみるが、当然というべき黙殺である。
時計を見ると、午前七時ジャストだった。彼女の準備にはいつも二時間近くはかかるということだから、この時間にわが家に居るということは、五時には起きていたという計算になる。凄みがある。