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「シンヤー」

 落ち着き始めていた胸が、ふたたび早鐘を打った。
 その場に凍りついていると厨房の先輩が顔が覗かせた。長谷川さんだ。背が高くて、バイトの先輩のなかではいちばん男前かもしれない。谷さん同様、ヤンキーだけれど。

「あれ? 杉村さんだ。一人? あいつまだ休憩じゃねーのかな」
「え、あの」
「シン、ああ、谷。谷見なかった?」

 中に。声がうわずった。そっか、ありがとうと長谷川さんは言って、そこでようやくわたしの顔に気づいたようだった。

「えっ、泣いてる? どうしたの?」

 や、ちょっと。蚊のなく声で言ったところで、谷さんが戻ってきた。

「お、どうした? お前今日バイト休みじゃなかったっけ」
「先輩に呼ばれて××行くことになって。バイク借りてっていい? 夜返すわ」
「はあ? おれの足はどうなるんだよ」
「チャリ置いてくから」
「ガソリン入れて返せよ」
「サンキュー」

 傷なんか付けたらしばくからな。舌打ちをして、でもずぼんのベルトループにつけていた鍵束からバイクのキーをはずし、さしだす。長谷川さんはそれを受けとると、交換に自転車とカギを渡した。

「じゃ、あとで。杉村さん、谷になんかされたんだったら言ってよ? こいつオオカミだからふたりっきりなんの危ねーよ」
「朝ちゃんに余計なこと言うなよ! さっさと行けよ」いらだった風に、でも笑いながら、谷さんは長谷川さんの肩に軽くパンチをした。仲がいいんだなあ。

「朝ちゃんごめんな、騒々しくて」

 谷さんが、オレンジジュースを差しだしてくれた。受けとりながら、わたしは笑って首をふった。ちいさくお礼の言葉をのべる。その口もとが、こわばったように少し引きつってしまった。それを谷さんは見つけてしまう。

「どうした? 変なこと言われた?」

 いえ、と言ってわたしは首をふった。「ちょっと、びっくりしちゃっただけで」
「びっくり?」あいつのドアの開け方乱暴だもんな。
「や、」わたしはいったん口をつぐみ、それから「谷さんの名前、知らなくて」
「あれ、そうだった? おれシンヤっていうの。谷慎也。平凡な名前だろー」

 いい名前だと思います。心からわたしは言った。

「さっき話した人もおんなじ名前だったから、ちょっと、びっくりして」
「え? 元彼?」

 元彼。その響きに、つい笑ってしまう。そのとおりなのだけど。

「けど、夜って呼んでなかった?」
「真夜中の、真夜って書いてシンヤって読むんです。だからわたしとかアキちゃん……お姉ちゃんとか両方の家族はむかしからその人のこと、ヨルって呼んでたので、今もそのまま」
「へえー!すげー偶然だね。朝ちゃんにとって、特別な名前なんだ。シンヤくんかー。けど、何かいいね。朝と夜。兄妹みたい」
「わたしたちのとこ、父親ふたりが親友どうしで。深夜ってしたかったみたいなんですけど、真夜の方が字がきれいだからって、市役所に提出するギリギリで変更したらしいです」

 わたしの名前は、男の子でも女の子でも「朝日」にすることはもう姉が生まれたときから決まっていたから、それにちなんでヨルは「真夜」となったらしい。

「へえ、じゃあゆくゆくは二人、結婚させたかったんじゃないの?」
「それは」ありえない。わたしは笑った。「ないんじゃないですかね」
「なんで?」
「結婚するメリットとか、ないですし」

 父たちがそれぞれの会社を統合することに決めたのは、わたしたちが生まれるまえのことだったときく。そこにどんないきさつがあったかはわたしのあずかり知るところではないけれど、ただ、思った。ほんとうに仲がいいのだ、と。現在父たちは共同経営者として、ふたりで会社を運営している。

 

「すごいね。めちゃくちゃ仲良しじゃん」
「そうなんです。びっくりしますよ」
「うらましいけどねー。でも共同経営なら余計結婚してくれたら楽じゃない?」
「うーん。どうなんでしょうか」

 でもこれでもう、わたしたちの縁は切れてしまったも同然だし、まあこのご時世、親の決めた相手の結婚なんて、いくらふたりが仲良しだからってありえないのじゃないだろうか。わたしは、いやだ。ヨルだって、いやがるだろう。

「ちょっと落ち着いたみたいだね」
「谷さんのおかげですよ」ほんとうに、そう思っている。どうもありがとうございました。わたしはふかぶか頭をさげる。
「話ならさ、いつでも聞いたげるからさ。遠慮しないで」谷さんは笑って、また頭を撫でてくれた。「そうだ、連絡先教えてよ」
「え、いいんですか?」
「おれが頼んでるんだから」

 わたしは制服のスカートからケータイを取りだした。嬉しすぎて、指の先がビリビリするようだった。

「人に喋ったらちょっとは楽になっただろ? 全部抱えこんだままでいると、押しつぶされちゃうよ。だからおれは朝ちゃんのこと、甘やかしたげる。お兄さんに甘えなさい。一歳しか変わんないけど」

 おなかの下あたりから、よくわからないあついかたまりが、喉のところにまでブワッと押しあがってきた。嬉しいのになんだか息苦しくて、泣きそうになってしまった。
 また目に涙をためるわたしを見て、谷さんは苦笑する。

「今日はさ、もう家に帰りなよ」
「え、や、それは」
「朝ちゃんここに来てから全然休んでないじゃん。送って帰りたいけど、またすぐしたらおれ戻らなきゃだし。店長に言っといたげる」
「でも、今日から制服着れて」
「あんま無理したら、へたばっちゃうぞ。制服なんかこの先いくらでも着れるんだから。お兄さんの言うことはちゃんと聞きなさい」
「……はい」

 いい子。そう言って、顔をくしゃくしゃにし、谷さんは笑った。