読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

 3-2








 今日から、いよいよ制服を着て働くことができる。嬉しい。
 そうだ、しばらく学校に行くのはやめよう。店長にはてきとうに説明をして、夏休みとおなじように、朝から晩まで働かせてもらおう。ほとぼりが冷めたら、また登校すればいい。前向きな休学なのだから、わるくはないだろう。そうしよう。学校から連絡がない限り、母はきっと、わたしが登校拒否をしていることにも気がつかないだろうし、気にもしないだろう。明日めぐちゃんに、休学届けをもらってもらえさえすれば、きっと全部うまくいく。
 そんなことを考えながら、ひたすら前だけ向いて自転車を漕いでいた。一度俯いてしまえば、その場に崩れ落ちてしまいそうな気がした。開きっぱなしの両目から次つぎにこぼれて風にのり、うしろへ流れてゆく涙の粒はそのままに、かすむ視界のなか、わたしはひたすら自転車を漕いでいた。
 それで、気がついたら自宅ではなくバイト先へたどり着いていた。まだお昼だ。いくらなんでも早すぎた。
 けれど、もういちど自転車に乗って家に帰る体力も気力もなく、ふらふらと更衣室のなかへ入ってゆく。無人のその床に、カバンをほうり投げ、わたしもおなじように床へと身を投げる。うしろから刺し殺された死体みたいなかっこうで突っ伏し、しばらくそのままでいる。ロッカーの上の窓から夏の終わりの陽が、最後の力をふりしぼるみたいに本気の光を浴びせにかかる。更衣室はまるでサウナのような暑さだった。それに全速力で自転車を漕いだものだから、熱気からだにぴったりとまとわりついていた。毛布を頭からかぶったように。息苦しかった。

 暑さのあまり、床がとけてぐにゃんてなって、底なし沼みたいにわたしをまる呑みにしてくれたらいいのに。そう思いながら目を閉じた、とき、唐突に閉まったばかりの鉄扉が不吉な音を立てながら開かれた。急なことで、もちろんわたしはそのままの姿勢のまま反応できなかった。

「おわっ、ああ、朝ちゃんか」谷さんだった。

「そっか、今日から二学期か。制服初めて見たー。可愛いじゃん」で、何してんの? と言って、靴を履いたまま床にのびている死体的なわたしのかおをのぞき込む。そして第一発見者は驚き、あわてる。「な、なんで泣いてんの? どうした?」

 わたしの腕を掴み、持ちあげ、座らせる。

「谷さん……」谷さんのかおを見たら、ますます泣けてくるのだった。「どうして女子更衣室にいるんですか」

「なんかクセ? 男子更衣室は社員ばっかで重苦しーんだよ、空気が。パートさんとかと喋ってる方が面白いし」
「そうなんですか……」
「や、そうじゃなくて」違う違うというように、胸の前で手のひらをひらひらさせ、谷さんは言った。「どうしたの、そんなに泣いて。何かあった?」
「谷さあん」うわーんと言って、わたしはぼろぼろ涙をこぼした。
「何、あ、彼氏にでもフられたか?」冗談めかしてしっかりと図星を指す。

 さめざめと、わたしは頷いた。
 ギョッとしたのは谷さんだろう。

「え!? え、ごめ、……え? てか、いないって言ってたよね、彼氏。だから冗談のつもりだったんだけど……」
「うう、違うんです、今日あらためて、うう、うわあーん」
「お、おお、よしよし! 話きいたげるからとにかく一回落ち着こう、な。ほら、深呼吸してみ?」

 ほら、息吸って、次吐いて。
 谷さんの手のひらが、わたしの頭に置かれる。それだけでとめどなく泣けそうだったけれど、谷さんの言うとおり、深呼吸をし、一旦泣くのをやめる。それから、ぽつぽつと、ことの顛末を打ち明けた。
 でも核心部分はやっぱり言葉にできなくて、途中途中を欠落させたまま喋るので、話の筋はめちゃめちゃだし、日本語としてもおかしいし、ときおり嗚咽も混じるので聞きとりにくく、きちんと意味がとおったのか、ちゃんと話は伝わったのか、とても不安になった。それでも谷さんは静かに頷き、ときどき控えめに相槌を入れ、最後までちゃんと話を聞いてくれた。

「そっか。朝ちゃんにも朝ちゃんの恋物語があったんだな」

 はい。すこし落ち着いて(それでもまだときどきしゃくりあげなければならなかった)、床の汚れた板目の模様を漫然と眺めながら、わたしは頷いた。

「今日で完全に嫌われちゃいました」
「うーんそうだなあ、ちゃんと理由話さないのに納得はできないよね」
「……ヨルはわたしの味方だと思ってたのに」

 言ってしまって、また視界が揺れて曇った。そうか、わたしはそれで絶望したんだった。ヨルはわたしの味方だと思っていたんだ。そう、ヨルだけは。

「ま、細かいところはどうであれ、うん」やさしくほほえみ、わたしの頭に手を置く。「よく頑張ったね」
「うう、ありがと……ござ、」
「こら、もう泣くな。ちょっと待ってて、お兄さんがジュースでも入れてきてあげよう」

 そう言ってわたしの髪の毛をわしわしとして、谷さんは立ちあがって更衣室をあとにした。
 ポツンと一人のこされたわたしは、無人の更衣室の静かな空間に身を置くことで少しずつ冷静さを取り戻し、自分のさらした醜態をふりかえって、顔から火がでそうになった。わたしは、なんてことを。しかしそうやって恥ずかしがりながらも口もとはゆるみ、心がぬくぬくするのを感じた。やっとまともに呼吸ができるようになった。なんていいひとなんだろう。わたしは思った。
 そこで、まただしぬけにギイッとドアが開いた。