2-5
「でも、話すことなんかホントに何もないのに」
「しつけーな。俺はあるんだって。なあ、悪かったよ。こないだのこと」
わたしは首を振った。「ヨルは、」いまさら謝られたところで。
わたしがどんな気分だったか。
あの日、ヨルは。
「……ヨルは何も悪くないよ」
ヨルはわたしの腕をひき、サッカー部の部室へと連れこんだ。他に部員さんのすがたはない。今日は各自昼食を摂ってからの練習になるらしい。
「なんだよそれ」今日のヨルはずっと、いらだっている。わたしのせいだ。「納得できねー。納得できるようなこと言えよ」
「だから」部室中央のブルーの長椅子に肩を並べて座って、わたしは落ち着かない。「ない。話すことは、なんにも」
ヨルは舌打ちをすると、押し黙った。
わたしも、こわくて、となりでただ無言でいるほかない。
「……わかった」
いくらかの沈黙ののち、空気が震えるような低い声でヨルは言った。え。わたしは顔をあげ、ヨルをみた。わかってくれた?
「じゃあ俺絶対アサとは別れない」
「な」わたしは戸惑う。「なんでそうなるの」
「お前が勝手なことばっか言うからだ。別れたい。でも理由はない。話すことは何もない。納得できるかっつーの」
「わたしはもう、ヨルのこと好きじゃない。好きじゃなくなったから、一緒にいたくない」一生懸命、その整った横顔を睨む。
「どうして急に?」
「……。」
「ほら、答えられない」この話はもうおしまい、と、ヨルは立ちあがった。
困った。泣きそうだった。
まさかヨルが、こんなにしぶるとは思わなかったのだった。別れたいって言えば、ああそうかわかったじゃあな、と、こうなるとばかり思っていたのに。
とほうにくれていると、頭上に影がさした。思わず顔をあげてぎょっとする。すぐそこに、ヨルのきれいな顔が……
「や、やだ! やめてっ」
「止められっか。こっちは一ヶ月もおあずけくらったんだから。ヤらせて。どうせ誰もまだ来ねーから」甘い声。
左手のうえに、おおきな手のひらが重ねられる。急な体重移動により、チープな長椅子はミシリと不穏な音をたてた。顎を持ちあげられ、鼻と鼻がぶつかりそうな至近距離で、ヨルが目を閉じた。
ヨルが愛用している、男の子用の制汗剤のにおいが鼻腔をくすぐった。
その瞬間、わたしは思いっきり左手を振りあげた。
バチン。
手のひらが焼けるようにあつくって、われにかえる。
ヨルは不自然な姿勢のまま、すべての動作をストップさせて、ただポカンとしている。
「す」わたしもパニックだ。叩いてしまった。叩いてしまった!
「好きな人ができたっ」
「は?」
あっけにとられたふうにまるくなった目が、怒りや不快感を孕んでみるみるうちに険しく歪められてゆく。
「は? 何。それ、別れたい理由?」
やぶれかぶれに、頷く。「だからもう、ヨルとは付き合えない。ごめんなさい」
ヨルは立ちあがるとくるりとうしろを向き、吐き捨てるように「最低」と言った。
「冷めた。がっかりした。もういい。お前なんかいらない。こっちから願い下げだ。別れる」
わたしは、知らず歪んでしまう口もとにギュッとちからを入れ、一文字にむすぶ。わなないてしまいそうな、下唇を噛む。
ここで泣いたら、すべて台無しだ。
わたしは立ちあがると、みじかくごめんなさいとつぶやいて、逃げるように部室をあとにした。
そのまま一度も立ちどまらず振りかえらず、自転車置き場まで走った。