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「いっ、痛いよ、ヨル」
中央校舎だけ一階部分がない。等間隔に並んだ角柱に支えられたその下は広い中庭となっていて、まんなかあたりに購買部と学生食堂があった。しかしこのままでは渡り廊下から左右に突き出た校舎部分がアンバランスになるため、両端につくられたコンクリートの階段がそれをがっしりと支えている。グランド側を向いて渡り廊下の右側は、一面芝生が敷きつめられていた。文化祭シーズンには特設ステージが設置かれたり、たくさんの出店で賑わうらしい。天気のいいよく晴れた日には、シートを持参した生徒らがここでめいめい昼食をとる。芝生側の階段下に到達すると、ヨルは植えこみの陰にわたしを引きずりこんだ。ここまで五分弱、ヨルは一言もしゃべらない。
ぐっと肩を押され、うしろに転倒しかけてしりもちをついてしまった。したたかに腰を打つ。悲鳴が漏れる。ヨルは黙ったままだ。乱暴にあごをつかまれ、キスをされた。口内に、舌が差しこまれる。肌の表面を、ぞわっとしたものがはしる。顔を背けようとするにもがっちりとあごを固定されているせいで、逃げられない。苦しい。わたしはどんどんヨルの胸をたたいた。でも、押そうが引こうがびくともしない。声が漏れる。苦しい。体力のないわたしのこと、五分ほど小走りをすれば立派に息も乱れる。そのうえ、口を塞がれてしまったのだ。苦しくないわけがなかった。
ようやく解放され、体が酸素をもとめておおきくあえぐ。ちからが入らない。へたりこんでしまう。
「は、……ヨル……、なに」
「なんで俺の言うことが守れねーの」しゃがんだ姿勢のまま、お仕置き、と言ってヨルは冷たい目でこちらをにらみつける。「今度破ったらもっとエロいお仕置きするからな」
「なに、それ」まだ息が整わない。言葉がみつからなかった。
動機がはげしくなる。うるさい。息が落ち着いてゆくと今度は、怒りがじわじわと湧いてきた。
「いいの、練習中にこんな」
「それをお前が言うの? お前が抜けさせたんだろ」
舌打ちをし、立ちあがったヨルは腕をユニホームの裾からつっこみ、鍛えられた腹筋とほっそりとした腰が覗くのもおかまいなしに、その胴部分の生地を伸ばして髪の先から額から滴る汗をぬぐった。伸びた前髪をかきあげる。ため息をつく。
「次はないからな。わかった?」
もうしない。わたしは言った。想像したよりも低い声になった。
「わかったんならいーけど」
「二度としない。帰る」
一度こちらに背を向けたヨルがこわい顔をして振り返った。「は?」
「もうヨルとはやっていけない。別れる。もう付き合えない。帰る」
「は? 何それ、逆ギレ? おとなしく待っとけつってんの」
「もう無理。もうやだ。なんでヨルにあれこれ言われなきゃいけないの」
目元を指でぬぐい、声を荒げる。違う。ほんとうに言いたいのはこんなことじゃない。ほんとうに無理だと思ったのは、もっと違う理由だ。
だけど、それは一生誰にも言えない。
「だいたい、不相応なんだよ。身の丈に合わない。こんなの」
「は? どういう意味だよ。なんなの? こないだのことまだ怒ってんの?」
「じゃあ」もう目元をぬぐうこともしなかった。「わたしのどこが好きなの」
ヨルは言葉に詰まった。
「……もういい。二度と会いたくない」
ようやく立ち上がることができた。スカートのうしろをはたく。膝やふくらはぎにも、砂がたくさんついている。すりむいたのか、肌が熱を持ち、ひりひりとする。
「待てって!」
また乱暴に腕を掴まれた。離してと言い腕を振り払った、ところで、遠くから怒号が聞こえた。地響きを思わせるような、おそろしい声だった。
わたしもヨルも、同時に体をこわばらせる。
「ゴルァァァァ松田っ!! 練習中に何やってんだ!!」
サッカー部の顧問の先生だ。
ヨルは「げっ」と浮足立った声をあげたが、逃げるにはおそすぎた。すぐに首根っこをつかまれ、そのままずるずると引きずられてゆく。
「ちょ! ちょっと待ってください! 大事なとこなんすよ今!」
「アホか! サッカー部員が練習以上に大事なことがあるかっ」
アサっ、アサっ、とヨルは往生際わるく怒鳴っていたけれど、それも次第に遠くなり、聞こえなくなった。ばかみたい。わたしは息を吐いて校舎に入るべく、階段に向かった。一段めに足をかけたとき、一度はおさまった涙腺がまたゆるんできて、あわてて上を向く。数秒そのままの姿勢でいる。顔を正面に戻す。二段めにのぼる。またもぶわっと涙が浮かんで、あわてて上を向く。下まぶたのきわを、指で拭う。しっかりしろ。頬を叩く。叱咤する。
しっかりしろ。ヨルなしでももう、生きていくんだろう。わたしはもう、家族なんかいなくたって、ひとりで生きていくんだ。